モミジアオイは見た

昨日は太極拳から帰ったら、

疲れて夕方まで眠ってしまった。

思った以上に疲れるのは、

嬉しくてついやり過ぎるのと(←単純なやつめ)

太極拳だから氣が動くせいだと思う。

だから心地よい疲れなのだが

そんなわけで水曜日の午後は使い物にならない。

以前週3日中国武術をしていたなんてびっくりだ。

夕方漸く體が言うことを聞いてくれて、

足りなくなった黒と金色のアクリルガッシュの絵の具を買いに散歩。

太極拳の先生にも指摘されたが

まだ肩と腕は万全じゃない。

太極拳のほうはギャラが発生しないから氣樂にリハビリをしている氣持ちになれるが

ギャラが発生する絵に関しては氣樂になれない。

自分はもう絵が描けないかもという未然の恐怖があった。

故にか、実際に筆も動かず、やる氣も起きず

なんだろな。わかりやすいな。

「絵を描く人」というのを自分のアイデンティティーにしていたんだな。

ただの表現の仕方なだけなのに

特別なものに粉飾していたんだ。

今、また始めてみれば、少しずつ戻る。ほら見ろ。

前と違うのは氣持ち。

私は一生懸命を辞めたのだ。

真剣にやるのだ。

それだけだ。

がおー(←落ち着け)。

で、ちょっと事情があり、今は仏さまの絵を描いている。

足りなくなった絵の具が黒と金色だなんて、

もろ仏壇な雰囲気だけど、あはは

この「仏さま」のお線香くさいイメージと

そして太極拳の年配者のするスポーツというイメージの貧困さは

確かにお年寄りが多いからかもしれないが

もっと違うものなのにな。

やってみたらわかった。

やってみないとわからなかった。

で、夕方まで寝てしまって

しかも考えもなしに緑茶を飲んだ人は

今、目が冴えてしまった。

はっ。

目が「らんらんとしている」

目が「らんらんしている」

《と》という助詞があるのとないのとで

意味が全く違ってくるじゃないか。

今の状態は

どちらかというと

らんらん♪している。

あははは。

そうなのか。

蝶々飛んじゃってんのか。

やはり體を動かすと前向きになれる。

めでたい木曜日の朝である。

※画像は昨日たくさん咲いてたモミジアオイという芙蓉の仲間。いかにも《夏》って感じのする、大きめの花